PR

カズの足がもう数センチ長ければ… 生き証人3人が語る 「ドーハの悲劇」の真実!



サッカー01


1: 2019/04/30(火) 17:22:00.48 ID:CXzcP9mp9
 不動の左SB都並が1993年10月のアメリカW杯最終予選でプレーすることは不可能――。そのことを知っているのはオフト監督、清雲コーチらスタッフに主将のDF柱谷哲二、そして都並本人だけだった。最初に代役候補として招集されたのが、ジェフ市原所属のDF江尻篤彦だった。同年9月のスペイン合宿に帯同した江尻は、宿舎で都並と相部屋となった。もちろん「オフト日本の左SBについてあれこれ伝授してほしいというオフト監督の意図だった」(都並)。しかし、江尻は合宿最初の練習試合に先発したが、後半からセンターバック(CB)が本職のDF勝矢寿延(横浜M=当時)が入った。左SBでプレーするのは初めてだった。

■「バックアッパーは江尻が共通認識だった」

六川則夫「江尻さんは守備力を買われての代表入りだったと思いますが、合宿中の練習を撮っていても<ラモスからパスが出ない>ので江尻さん自身、どのタイミングでオーバーラップすればいいのか、中に絞り込めばいいのか、分からなくなってピッチ上で孤立無援となり、日に日に表情から生気が失われていくのが、カメラのファインダーを通して分かりました」 

都並敏史「相部屋だった江尻のメンタルが、日ごとにダウンしていくのが手に取るように分かった。言っておきますが、ラモスさんがパスを出さないのは、それ相応の理由があったからです。ラモスさんというのは<ここで攻め上がり!><今は守備に専念!>と誰もが予測できるようなプレーに対して、彼独特の感性が合わないとパスを出してくれません。経験値と言ってしまえばそれまでですが、僕にはラモスさんがパスを出してくれるタイミング、同じ左サイドのカズと連係しながら攻め上がる呼吸など分かっていた。でも江尻にそれを求めるのは酷でしたね」

森雅史「(熱狂的サポーター集団の)ウルトラスが中心になってW杯最終予選の前、代表選手それぞれの応援チャントのCDをソニー・ミュージックで制作して販売。ヒットチャートの20位くらいに入ったのですが、左SBとして都並さん、江尻さんのチャントは収められていましたが、最終予選前に招集されてドーハで戦ったDF三浦泰さんのチャントはありません。都並さんのバックアッパーは江尻だ! それがサポーター仲間の共通認識でした」

 オフト監督には「サイドバックの理想像」があった。まずは守り、そして他選手との連係、そして攻め上がってクロスを放り込む――。Jリーグ開幕前の1993年4月にアメリカW杯アジア1次予選が行われ、UAEとのアウェー戦でオフト監督は、不動の左SB都並に「互いにナイフで刺し合うような(緊迫した)試合では、前後半に1本ずつクロスを上げればいい」と指示を送った。大前提として守備重視があり、攻守のバランス感覚も重要視していた。

都並「あの当時の勝矢はフィジカルもメンタルも高いレベルで整い、ストッパーとしては最高の選手だった。でも左サイドバックとしての技術が足りなかった。サイドバックには<安定した守備><中盤でのつなぎ><攻撃の仕掛け>が求められます。手前みそになってしまいますが、それぞれの役割を最もバランス良くこなせる選手は自分しかいなかったと思います」

日刊ゲンダイDIGITAL 2019年4月30日 17時0分
https://news.infoseek.co.jp/article/gendainet_5390769
■「カズの足がもう数センチ長ければ…」

 ちなみにスペイン合宿での練習試合のハーフタイムに、清雲コーチから「後半から行くぞ」と言われた勝矢は「驚いた」とあるインタビューに答えている。センターバックのヴェルディ・DF柱谷哲二、横浜M・DF井原正巳のコンビは安定したプレーを見せ、右SBのレギュラー堀池巧(清水)の調子も上々。どのポジションに入るのか分からなかった勝矢は、オフト監督から「左サイドバックで行くぞ」と言われて「えっ! マジですか?」と聞き返したと述懐する。

六川「それからスペイン合宿中の練習試合は、勝矢さんが左SBとしてフル出場しました。本人も手ごたえをつかんだと思いますが、最終予選の初戦サウジアラビア戦(10月15日)の前に国立競技場で行われた壮行試合コートジボワール戦(4日)の左SBで先発したのは、清水所属の三浦泰年さんでした」

 1986年からJリーグ開幕前年の1992年まで読売クラブ(現東京V)でプレーしていた三浦泰は、ラモスとのコンビネーションも過不足なくこなせるし、ボランチを本職としながら左SBの経験もある。しかも日本代表のエースFW三浦カズの実兄である。大一番を前にして「ヤス・カズの競演」に日本国中が沸き上がった。

森「都並さんは<最終予選に間に合わない>と我々も腹をくくり、その代役を務めるはずの三浦泰さんを全力でサポートしようじゃないか――という意識がスタジアム中に醸成され、サポーターの一体感は素晴らしいものがありました。ひたすら『ヤァ~ス~』と名前を連呼することで<ドーハで頑張ってほしい>という思いが、三浦泰さんに伝わったと思います」

 最終予選初戦のサウジアラビア戦はスコアレスドロー。2戦目のイラン戦は、三浦泰の背後の左サイドを何度も何度も攻め立てられ、結局は1―2で敗退した。ここでオフト監督は決断した。3試合目の北朝鮮戦に勝矢を先発させ、4試合目の韓国戦、最終戦のイラク戦と3試合連続で勝矢をピッチに送り出した。そして――。イラク戦のロスタイム。イラクの左CKは、予想外のショートコーナーだった。勝矢が対応しなければならないエリアで懸命に右足を伸ばし、何とかクロスを阻もうとしていたのは左FWの三浦カズだった。

六川「イラク戦の後半途中から<日本に悪い流れがきている。日本のゴール側で何か起きる>と本能的に悟り、終盤になってタッチライン際をテクテク歩いていき、日本ゴールの左側に陣取りました。終了間際のショートコーナーは意外でしたし、ボールを受けた選手が切り返したのも意外でした。そこにいたのが三浦カズだったことにもビックリしました。ともあれ三浦カズの足が、もう数センチ長くてボールに当たっていたらクロスは上がらず、日本を奈落の底に突き落とすヘディングシュートもなかった。個人的にも貴重な一枚となったわけですが、試合中の移動などで露出がズレていたことが悔やまれます」

 土壇場で同点に追い付かれてしまったオフト日本は、ライバルの韓国と「2勝1敗2分け・勝ち点6」で並び、最後の最後にアメリカW杯行きの切符を手にしたのは、得失点差で日本を上回った韓国だった。

都並「ベンチの右端で試合が2―1のまま終わるのを待ち構えていたのですが、あの瞬間に時が止まってしまった感覚でした。ゴール裏のサポーターに挨拶に行ったのですが、自分ひとりで行ったのか、それともチームで行ったのか、全く覚えていません。ピッチの上にへたり込んでいるラモスさんの背中の背番号10がとても印象に残っています。あのドーハの悲劇というのは、いろいろな意味で日本サッカーを大きく成長させてくれたと思います。そもそもケガ人の僕がチームにいてはダメなんです。あの時代、そうはっきり言える人がいなかったんです。ケガをしているけど何とかなるだろう、各ポジションのバックアップが薄いけど何とかなるだろう、日本代表は強いからW杯に行けるだろう――。昭和から平成にかけた時期、そんなアバウトな感覚が残っていました。ドーハの悲劇を経験した1993年というのは、日本サッカーの大きな転換期となりました。ドーハの悲劇の戦犯である自分が生き証人として、今後も語っていきたいと思います」

引用元: http://bit.ly/2JcyXQv

続きを読む

from SAMURAI Footballers http://bit.ly/2IRtqz7
via IFTTT

コメント